野島崎灯台のあゆみ 野島崎灯台150年の軌跡 - 一般社団法人 南房総市観光協会

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野島埼灯台のあゆみ

野島埼灯台150年の軌跡
千葉海上保安部 交通課

1. 野島埼について

野島埼は昔、今と違って離れ小島で、風光明媚な景色となっていたそうです。
当時の人々がこの離れ小島に社を献じて、厳島神社として祭ったそうですが、これが現在野島埼灯台の入口手前、灯台に向かって左側にある神社です。
野島埼俯瞰
野島埼俯瞰
この離れ小島が、元禄16年11月23日(西暦1703年12月31日)午前2時ころ、野島埼沖を震源とする元禄地震と呼ばれているマグニチュード8.2の大地震で海底が数メートル隆起して、現在のような陸続きとなりました。
この地に、慶応2年5月(西暦1867年),江戸幕府による江戸条約により神奈川県にある観音埼ほか7ヶ所に灯台建設の取り決めで建設されました。
このようなわけで野島埼灯台は観音埼灯台と共にわが国最古の歴史がある灯台です。
野島埼灯台の初点灯は観音埼灯台の点灯約1年後の明治2年12月18日(西暦1869年)です。
ですが、実を申しますと、その前に野島埼において木製の仮灯台が建造され灯火を点じていたという事実があります。
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2. 江戸条約について

ここで江戸条約について、簡単に説明しましょう。
江戸条約とは幕末、諸外国と締結してしまった不平等条約を解消するために、慶応2年5月13日(西暦1866年)、徳川幕府全権水野忠精とアメリカ、イギリス、フランス及びオランダ4カ国代表が江戸で調印した旧税則の関税率軽減と貿易の制限撤廃を主眼とする条約で改税条約とも呼ばれています。
この中の第11条に「日本政府(江戸幕府)は外国交易のため開きたる各港最寄船に出入安全のため灯明台、浮木、瀬印木を備ふべし」とあり、航路標識の設置が義務づけられ、これにより観音埼(神奈川県横須賀市)、剣埼(神奈川県三浦市)、野島埼(千葉県南房総市)、神子元島(静岡県下田市)、樫野埼(和歌山県串本町)、潮岬(和歌山県串本町)、伊王島(長崎県長崎市)、及び佐多岬(鹿児島県南大隅町)の建造を約束しました。
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3. 野島埼灯台の着工等について

江戸条約の中で灯台の建造を約束したもののひとつである野島埼灯台は、江戸幕府から明治政府が引継ぎ、明治元年11月(西暦1868年)に着工、翌明治2年12月(西暦1869年)に竣工し、満1年の工程を経て、同年12月18日初めて灯火を点じました。
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4. 主要な灯台を建造した外国人技師について

日本の主要な灯台を作ったのはフランソワ・レオンズ・ヴェルニー氏(フランス人)とリチャード・ヘンリー・ブラントン氏(イギリス人)です。
ヴェルニー ブラントン
ヴェルニー ブラントン
そのころの日本人は誰も西洋の灯台を見たことがなかったので、江戸幕府はイギリスに灯台のレンズや機械の買入れと指導を頼んでいました。
幕府は、急遽フランス政府にも灯台建造を依頼し、当時すでに来日し横須賀製鉄所(あとに造船所となる)の建造に当たっていたフランス人土木技術者ヴェルニー氏に灯台の建造を命じました。
ヴェルニー氏が作ったのは観音埼灯台、野島埼灯台、品川灯台及び城ヶ島灯台の東京湾の周りの4ヶ所だけで、その後、製鉄所の仕事に専念しています。
一方イギリス人のブラントン氏はそれ以外の灯台32ヶ所と灯船2隻を作っています。
余談になりますが、幕末から明治維新にかけて日本の近代化を支援したヴェルニー氏を記念してヴェルニー公園が神奈川県横須賀市にありますので機会がありましたら、ぜひ訪れてみてください。
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5. 野島埼灯台の建造について

ヴェルニー氏が作った灯台のひとつである野島埼灯台は、ヴェルニー氏設計の下にチボジー氏(いずれもフランス海軍に属していました)が現場監督且つ指揮し、明治新政府の官員が建造に当たり、政府直営にて工事を進捗しています。
仮設の灯台
仮設の灯台
建築資材はすべて輸入によるものです。灯明器具類は言うに及ばず、煉瓦の一片、火山灰(セメントの代用)の1袋にいたるまではるばるフランス本国から各国の艦船により運ばれたといわれていましたが、実際にはレンガを横須賀と野島埼で焼いて作っていたという記録があります。
こうして建造された灯台は、基礎からの高さ9丈9尺(29.997メートル)、海水面からの高さ13丈5尺(40.905メートル)のレンガ造りの八角形、白色塗装、最下部の直径23尺(6.969メートル)、壁の厚さ3尺2寸(91.506センチメートル)、内部は鉄製の螺旋梯子にて昇降していました。
しかし、38万5000個のレンガを積み上げ、昔のことなので仕方がないのですが鉄筋が入ってなく火山灰のセメントで固めた構造のもので、その後に悲劇を生むことになるのです。その経緯は後ほど記述します。
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レンズは第1等折射玻璃フレネル式籠型8面といわれているもので回転機械を整備し、レンズを回転させていました。玻璃とはガラス板のことです。
初代野島埼灯台
初代野島埼灯台
フレネル式とはフレネル式レンズのことをいいます。一枚もののレンズだと重くなる巨大レンズを分割、軽量化し、それらを組み合わせて光源からの光線を集光するレンズです。
この頃は電気を使う時代ではなく、石油を燃やし火力による灯源を使用していました。
灯器は4重芯石油灯、火舎(石油ガス灯の火を覆い包むガラス製の筒)の直径6寸(約18.18cm)、長さ2尺(約60.60cm)、灯質不動白光(燃料落花生油使用)約31万カンデラ、光達距離約17.5海里(約32.4km)の海面を照射することができるものでした。
従って、この野島埼灯台は我が国の洋式灯台の先駆けといえるでしょう。
当時、約30mもの高さの建築物はとてもめずらしく、人々にとって驚異であったものと想像されます。
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灯台の保守は外国人が担当し、助手として明治政府の官員若干名を置いていました。 初代の官員は金蔵という人との記録があります。 明治10年(西暦1877年)、初めて外国人の手を離れ、日本人による保守によるところとなりました。
「明治己巳12月18日」(太陰暦)と共に仏文にて CE PHARE A ETE ALLUME
LE
19 JANVIER 1870
との記載の銘版が野島埼灯台灯塔入口左側の内部円筒の壁に残されています。
銘版 銘版
竣工以来、時間を経ても変わることなく、東京湾出入船舶の指針として日本文化の向上発展、産業経済の振興及び世界人類の福祉増進に貢献、真に平和の象徴でありました。
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6. 野島埼灯台付属施設について

船舶が多くなり航海術が発達するに伴い、視界制限時に光りの標識だけでは危険なため、音響による標識として明治36年6月10日(西暦1903年)、手動爆発霧信号を設置して、毎15分間隔で火薬を爆発させて霧中の船舶に警報を与える業務を開始しています。
また大正2年6月(西暦1914年)、農商務省からの嘱託により海洋気象観測を開始しました。
大正2年11月、(西暦1914年)野島埼灯台沖1海里に水中音信号浮標1個を設置して(大正4年12月24日撤去)、さらに船舶の運航に安全を加えました。
大正14年8月31日には、爆発信号を改め、石油エンジンにより圧縮空気を作り、吹鳴する霧信号装置になりました。
さらに昭和28年7月31日に石油エンジンから電動機に改良されています。
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7. 野島埼灯台付近の海難について

野島埼灯台から西へ、東京湾に入る布良鼻にかけては、昔から沖合に岩礁が多く、座礁による遭難事故が相次ぎ海の難所といわれていました。
野島埼灯台付近では大きな座礁事故が2件発生しています。
ひとつは明治40年3月3日(西暦1907年)午後4時過ぎに、シアトルから横浜に向っていた23,000トン、347名乗船の大型貨物船「ダコタ号」が灯台の東側約4kmで座礁事故を起こしましたが、全員地元の人により救助され、乗客、乗員を旅館、寺院、民家などに分宿させています。
このとき乗組員は救助に来た地元の人に対して海賊の来襲かと勘違いして船内を逃げ回っていたエピソードがあったそうです。
乗客、乗員は同年3月5日に日本郵船の博愛丸で横浜に向っています。
もうひとつは、明治44年7月27日(西暦1911年)、午前6時頃に同じような海域で423名乗船のエンブレス・チャイナ号6,000トンが濃霧により航路を見誤り座礁事故を起こしています。白浜村の漁船で救助され、一旦寺や小学校に収容された後、同日夜、館山湾に停泊していた練習艦宗谷で横浜港へ向っています。
どちらの事故も乗船者全員救助されています。
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8. 関東大震災の被害について

震災で倒壊した野島埼灯台
震災で倒壊した野島埼灯台
野島埼灯台は大正12年9月1日(西暦1923年)午前11時58分、関東地方を襲った関東大震災により、大音響と共に倒壊してしまいました。基礎上、約6mのところでの折損でした。
初代野島埼灯台竣工から50有余年、歴史の中でその役割を果たしてきましたが、その労を富むものを惜しんでも惜しみきれません。
これと供に一切の文献、資料もなくなってしまいました。
この地震により観音埼灯台を初め東京湾周辺の航路標識がほとんど全滅しましたが、唯一、犬吠埼灯台だけが残っています。
野島埼灯台の近くにある洲埼灯台も灯塔に亀裂等の被害がありましたが、倒壊は免れています。
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再建中の野島埼灯台(右)、左は仮設の灯台
再建中の野島埼灯台(右)、左は仮設の灯台
洲埼灯台は、その後、本灯の上部が太く補強され、附属施設に亀裂の痕跡がありますので次、洲埼灯台を訪れた際に確かめてみてください。
この地震により野島埼灯台の東側、現在の「スーパーおどや白浜店」付近にあった岩目港と呼ばれていた港が海底の隆起により、使い物にならなくなったそうです。
野島埼灯台復旧作業として、余震がある中、復旧予算案を帝国議会に提出、その最中もアセチレンガス使用の仮灯を設置し、灯台の火は絶やさないようにしていました。
大正13年9月(西暦1924年)に復旧作業に着工し、大正14年(西暦1925年)8月に竣工し、8月15日に点灯を開始しています。
復旧工事に伴い、初代野島埼灯台に使用されていたレンガ等が現在の灯台敷地内のどこかに埋設されていますが、どの付近かはわかってはいません。
復旧工事は、まる大組三本亀一氏が請負い、灯台局技師森田富士助氏、灯台局技手三浦忍両氏が工事監督をしています。
これが灯台請負工事の始まりといわれています。
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構造は鉄筋コンクリート造八角形、白色塗装、基礎上の高さ灯火の中心まで24.49メートル、頂点まで28.98メートル、第2等折射玻璃2面の単閃光灯器を設置し、ニトラ1000ワットガス入り電球を使用、燭光数120万、光達距離17海里、毎20秒1閃光、水銀槽回転巻揚装置によるものです。
水銀槽回転巻揚装置とは、重いレンズを水銀槽の中で浮かせて、レンズを回転させるもので、動力として灯台本灯内にワイヤーで吊られた重い錘を重力で落下させ、ギヤを介して回転運動に変える装置です。電動モーターが導入される前はこの錘は人の手で毎夜毎夜巻き上げていました。
重いレンズを水銀の上にプカプカと浮かせた状態で設置されているため、小さな動力で回転でき、かつスムーズに回る仕掛けです。
建て直された灯台は、灯器自体は電化され、しかも灯台の建造は設計を含め、すべて国産でまかなわれています。
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9. 無線標識について

昭和5年2月9日(西暦1930年)、20世紀科学の粋である無線装置を整備した無線方位信号所が新たに設置されました。
昭和7年2月11日(西暦1932年)から無線標識業務を開始しています。
昭和8年9月15日(西暦1933年)から、当時は羅針業務と呼ばれていた通航船舶から呼出符号JLAの無線での呼び掛けに対し、野島埼灯台からのその船の方向を知らせる業務を実施しています。
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10. 太平洋戦争当時について

昭和16年12月8日(西暦1941年)太平洋戦争が始まりましたが、終戦に近い頃、野島埼灯台上空を数十機のB-29重爆撃機編隊が往復していたそうです。
野島埼灯台は敵戦闘機の格好の攻撃目標物になってしまい灯塔上部は銃撃により蜂の巣のように折射玻璃等、破壊されてしまいました。レンズは完全に破壊され使用できなくなってしまいました。
ほんの一部ですが、現在でも灯塔及び灯台玻璃の鉄骨の部分に弾痕が残っているのが確認できます。
弾痕 弾痕
さらに昭和20年7月18日(西暦1945年)、午後11時52分、アメリカ巡洋艦4隻による艦砲射撃240発を受け、野島埼灯台周辺に37発の着弾を認めています。
そして、昭和20年8月15日(西暦1945年)の終戦を迎えました。
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11. 終戦後について

終戦後、昭和21年1月(西暦1946年)より1000ワット裸電球を不動灯(常時点灯)として取り付けています。
戦後のいわゆる資材の欠乏を克服して徐々に機器を復旧、昭和22年11月25日(西暦1947年)、第2等単閃光型レンズを取り付け復旧しています。
昭和23年6月1日(西暦1948年)、海上保安庁発足と共に灯台局から同庁灯台部所轄となり海上保安業務の片翼を担うようになりました。
昭和28年7月31日(西暦1953年)、霧信号装置が石油エンジンから電動機に改良され、毎50秒ごとに5秒間、吹鳴されるようになりました。
昭和28年8月1日(西暦1953年)より灯台、霧笛、無線、管理標識等を総合して野島埼航路標識事務所と改名しています。
昭和31年5月1日(西暦195年)より船舶気象通報業務を開始しています。毎時37分から2分間、天候・風向・風速・海上模様(波・うねり)・視程を放送するようになりました。
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昭和37年5月1日(西暦1962年)、 実用化試験局(レーマーク)設置業務を開始しています。
レーマークとは船舶のレーダーの映像上に野島埼の方向を示す破線を表示させ、その方向を確認できる無線局のことです。
昭和43年11月26日(西暦1968年)、野島埼無線方位信号所の方向探知業務を廃止しています。
昭和59年3月8日(西暦1984年)、野島埼航路標識事務所庁舎を新築し、旧庁舎は撤去しました。
昭和63年4月8日(西暦1988年)、洲埼航路標識事務所廃止に伴い、洲埼灯台ほか12基が野島埼航路標識事務所に移管されました。
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12. 平成以降

平成4年6月30日(西暦1992年)、野島埼霧信号所を廃止しています。
霧信号所(現在は解体済)
霧信号所(現在は解体済)
平成4年11月30日(西暦1992年)、野島埼無線方位信号所を廃止しています。
航路標識事務所は平成18年度で完全に閉鎖され、野島埼灯台は無人化されました。
平成31年2月(西暦2019年)には霧信号所の建物は解体され、現在は、さら地となっています。
野島埼霧信号所は昭和の終わりの年に最後の吹鳴を終え、平成の最後の年に建物が解体されました。
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現在の野島埼灯台(がんばろう南房総の横断幕とともに)
現在の野島埼灯台(がんばろう南房総の横断幕とともに)
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皇室と野島埼灯台

Imperial family and Nojimazaki Lighthouse


2018年11月1日、西洋式灯台の建設が始まって150年の節目を祝う式典が都内で開催されました。
そのとき令和元年に即位した今上天皇が4歳の頃、野島埼灯台に上皇・上皇后とともにお越しになられた思い出をお話になられました。
海上保安部曰く、「皇室が灯台に複数回登ったことがあるのは、野島埼だけ」と普通ではあり得ないことのようです。

賛助会員(「のぼれる灯台」サポーター)募集

Supporting Members are Welcome


野島埼灯台を管理する公益社団法人燈光会では、参観灯台(「のぼれる灯台」)に親しみを持っていただき、気軽に訪れていただくため、令和4年6月1日から、全国賛助会員と地域賛助会員に区分し、会員の募集を開始しました。
野島埼灯台に一年間何度も灯台に訪れることができる「地域賛助会員」は年会費1,000円、全国16ヶ所にある「のぼれる灯台」全てに利用できる「全国賛助会員」は年会費3,000円です。
入会を希望される方は、賛助会員募集案内の入会申込書に必要事項を記載の上、郵送にてお申し込みください。
また、各参観灯台の受付窓口においても、入会申し込みができます。

きらりん館

Kirarin-kan, Renewel Open!!


「白亜の灯台が美しく、展望台からの眺望は抜群」と定評のある野島埼灯台。
灯台の中にある「きらりん館」では、その歴史や航路標識業務の紹介、機能や役割の解説などが展示されています。
特に、灯台に使用されているフランス製フレネル式レンズの展示は、ガラス工芸品のように美しく、そのレンズに灯を入れ壁面を灯室の窓として野島埼の夕闇風景が演出される光景を見ることもできます。
きらりん館は、灯台が150周年の節目を迎えた2019年にリニューアルされました。
多くの方々のご来訪をお待ちしております。

千葉県観光物産協会より功労者表彰を受けました

Management Group Received Award


野島埼灯台を管理する公益社団法人燈光会(野島埼支所)は、令和4年6月20日に「公益社団法人千葉県観光物産協会」より令和4年度功労者表彰を受けました。
野島埼灯台は、古くから南房総を訪れる観光客からの人気が高いことから、昭和29年9月に参観業務を開始。全国に3,000以上ある灯台の中で登れる灯台の16基のひとつで、年間平均約7万人の観光客を受け入れています。
歴史的、文化的価値が高く、観光誘致に貢献していることなどが評価されました。

功績の概要

野島埼灯台は、1869年にフランス人技師、ヴェルニーの設計によってつくられた日本最初の洋式8灯台のひとつで、八角形の美しい灯台は、「白鳥の灯台」とも呼ばれ、日本の灯台50選に選定されるなど、国の登録有形文化財です。
古くから南房総を訪れる観光客からの人気が高いことから、当時の社団法人燈光会が海上保安庁、地元関係者からの打診を受け、昭和29年9月に参観業務を開始し、以来現在まで67年以上にわたり業務を継続し、年間平均約7万人の観光客を受け入れています。
全国に、3,000以上ある灯台の中で、登れる灯台16基のひとつで、高さ24mの螺旋状の階段を登ると展望台から眼前に広がるのは太平洋とこの灯台を指標にして東京湾を行き来する大型船や雄大な景色に魅入られます。また、平成31年3月にリニューアルオープンした、灯台隣接の資料展示室「きらりん館」には、灯台の歴史や航路標識業務の紹介、機能や役割の解説の他、展示室中央には、ガラス工芸品を思わせるフランス製フレネル式レンズも展示され、野島埼灯台の歴史的、文化的価値に触れることができます。
毎年11/1の灯台記念日には、特別公開が行われ、多くの観光客や灯台愛好家が訪れるなど、南房総観光のシンボルの一つで、観光誘客に貢献しています。

※日本最初の洋式8灯台のひとつ
日本における洋式灯台は江戸末期の開国から始まります。
慶応2年(1866年)に米、英、仏、蘭の4か国と江戸幕府との間に江戸条約が結ばれ、東京湾の周辺などに8か所の灯台(観音埼灯台、野島埼灯台、樫野埼灯台、神子元島灯台、剣埼灯台、伊王島灯台、佐多岬灯台、潮岬灯台)を設置することが求められました。
当時の日本には西洋式の灯台を建設する技術がなかったため、江戸幕府はフランスとイギリスからレンズや機械を買い入れ、灯台建設の指導を依頼し、その後、明治政府がこの事業を引き継ぎ、フランス人技術者のヴェルニーを技師長とするフランス人の技術者たちにより建設が始まりました。


野島埼灯台を管理している公益社団法人燈光会のサイトもご覧ください

公益社団法人燈光会