南房総のお城を巡る - 一般社団法人 南房総市観光協会

南房総のお城を巡る

南房総里見浪漫・御城印を巡る旅

御城印を巡る旅

Journey to correct the Gojoin

南総里見八犬伝の物語の舞台となった南房総ですが、同時に、中世の安房を治めていた史実としての「戦国大名・里見氏」のその歴戦の跡も色濃く残っています。1400年代の中頃に安房に現れ、慶長19年(1614)徳川幕府によって伯耆国(鳥取県)倉吉に移されるまで、170年近くにわたって安房地方の歴史をつくった里見氏一族。
その里見氏にまつわるお城に関しての御城印(ごじょういん)を手に入れ、それぞれのお城が持つ歴史浪漫に想いを巡らせてみませんか。
2023.08 御城印を3つ追加(とうしろ台城、三原城、三原城山城)しました。

南房総市の戦国城跡

Ruins of Warring Castle in Minamiboso

岡田晃司さん

城郭が築造されはじめた戦国時代前期の房総半島南部では、大きな勢力はまだ成長していなかった。そのため、抗争があったとしても小さな地域勢力による小競り合いにしかならなかっただろう。しかし戦国時代後期になると、房総半島南部を支配して地域勢力を指揮下におき大勢力となった里見氏や正木氏が、相模の北条氏や上総の大きな勢力と、多数の軍勢による戦闘をするようになった。そうすると城郭も、規模の大きな戦闘に対応できる複雑な構造になっていった。火縄銃も導入されてくるのでなおさらだ。

南房総市の城跡は、戦国時代の末まで使われていたものは少ない。戦国時代の前中期の構造をした単純な城跡ばかりである。それは戦国後期には戦闘に即応する城郭が必要なかったということである。その時期の南房総地域は里見氏の安定支配地域になっていたことから、戦闘が身近に起こるものではなかったということでもあるだろう。

南房総地域は、広域抗争の前線になる場所が少なかったことから、戦国後期の戦闘に即応した城郭への改造に至らなかった。多く残されている、山の斜面に曲輪のみを重ねた単純な城跡は、隣接小勢力との小競り合いに対応していた戦国前期の姿なのだ。南房総地域で戦国後期にも使用されていた城郭は、館山城・勝山城・岡本城・宮本城・里見番所など海上交通や内陸交通の要所である。そもそも城郭には、軍事的な意味だけでなく経済的にも政治的にも交通路を掌握する目的があった。戦国後期でも実用として必要になった城郭は、軍事と流通上の役割が期待されていた城なのである。

(安房地域史研究家 岡田晃司)

三原郷歴史探求会(第2回)開催します

テーマ「正木氏と里見氏」の関係について

歴史の郷へ応援団三原では、元館山市立博物館長の岡田晃司先生を講師にお迎えし、「正木氏と里見氏の関係について」をテーマに、三原郷歴史セミナー(第2回)を開催します。
戦国時代、房総や関東に名をはせた里見氏、独自に大きな勢力として里見氏の歴史に影響を与えた正木氏。両者の関係について探求します。
また、南房総市観光協会から、三原城、三原城山城、とうしろ台城の3か所の御城印が発行されましたので、併せてお話を伺います。地域のルーツを共にたどりませんか。お気軽に参加下さい。

御城印の書家の作品も展示します。
日時
2023年9月24日(日) 13:30~
場所
和田コミュニティーセンター 3F市民ホール
連絡先
歴史の郷へ応援団 三原
090-1546-9816(鈴木)
後援
一般社団法人 南房総市観光協会
参加費
300円(3城の中からお好きな御城印1枚を進呈)
当日受付も可能です。資料用意の為、ご予約がおすすめです。

とうしろ台城

Toshirodai Castle

とうしろ台城跡は南房総市和田町小川の中央に位置する台地で、地形を生かした山城です。
千葉氏一族と言われる境井弾正、将監兄弟の居城と伝えられています。とうしろ台城跡には、同市和田町黒岩側からの登山道の麓に「城井」と思われる遺構があり、今も湧水があり利用されています。
城跡を中心として駒場・根方・堀の内宿・向根・馬場などの地名が残り、武士が拠点にしていた名残が窺えます。ある程度長い期間この地に土着していたと思われる豪族の境井氏の城ですが、大永・享禄(1521~32年)頃に里見氏に抗して反乱をおこし、里見氏の命をうけた正木氏に滅ぼされたと伝えられています。
同市和田町小川には、千葉氏一族の境井氏が小川や長狭を領有していたと伝わることから、千葉氏の氏神である妙見様が、天御中主神社として勧請創建されたとの伝承があります。
安房正木氏が、真田氏と共に大井氏・境井氏の乱を平定し、三原郷や長狭郡を里見氏から恩賞として賜り、三原城や長狭郡の山の城を足がかりに上総へ進出して隆盛を誇ると、真田氏は正木氏の配下となりました。1590年(天正18年)に勝浦城主正木頼忠が里見氏と共に安房一国へ退拠させられると三原郷へ戻り、入道して環斎と名乗り、鴨川市成川に隠居するまでの間に、妙見様、天御中主神社を再興したとも伝えられています。
境井氏が拠った地であるとうしろの居館や城跡を三原城と呼んだという説や、とうしろ台地の奥に位置する「先塚」あるいは「大塚」に出城や本城があったという説もあります。
付近には天御中主神社の別当寺の役割を兼ねたとされる妙達寺があります。妙達寺は正木時忠の娘の菩提を弔うために正木頼忠により1612年建立されました。
とうしろ台城跡は現在竹藪となっていますが、令和5年度後期から里山として整備されていく計画です。
岡田晃司さん

とうしろ台城御城印

とうしろ台城御城印
とうしろ台城の城主と伝えられる境井氏は千葉氏一族とされ、千葉氏の家紋は九曜紋です。境井氏が勧請した天御中主神社は「七曜紋」を使用しています。
北斗七星、妙見信仰にもとづき、千葉氏の未流として境井氏が使用した家紋なのでしょう。正木氏によって三原城の支配下におかれたとの伝承もあり、正木氏の家紋「丸に三引両」もとりいれました。

三原城

Mihara Castle

三原城跡は南房総市和田町中三原の宿に位置し、名刹日蓮宗威武山正文寺の北方の台地にあります。正文寺は相模の国の名族三浦氏の流れをくむ、真田氏の頭領真田源吾により、平安時代末に創建されたと伝えられ、真田氏の菩提寺として禅宗の寺でした。貞応年間(1222~24年)には、同市和田町中三原の唐ケ作に諏訪神社を建てたとも伝えられています。大永・享禄(1521~32年)頃に里見氏に抗した、和田町小川のとうしろ台城に拠った境井氏の乱を、里見氏の命を受けた正木氏と真田氏が平定しました。
三原城はその頃から、慶長10年(1605年)までのおよそ70~80年間正木氏の居城となり、正木時綱、時忠、時通、頼忠と当地は家督承継されました。(諸説あります。)
勝浦城主だった正木頼忠が天正2年(1574年)に父時忠の菩提寺とするため、禅宗の正文寺を日蓮宗に改宗、威武山正文寺と称しました。開基となった頼忠の娘は徳川家康の側室「お万の方」で、紀州徳川家初代の頼宣、水戸徳川家初代の頼房の生母として知られていることから、正文寺には「お万の方」の寄進の遺品やゆかりの史跡(南房総市指定)が数多くあります。
境内南方のお塚には、正木頼忠の子孫で紀州徳川家家老の三浦氏が、戦国時代の三浦一族で先祖に当たる三浦同寸義同の供養塔を建立しています。
正木氏が領有した時代には、三原城・三原城山城・とうしろ台城をあわせて、三原城として活用したとの伝承もあります。
岡田晃司さん

三原城御城印

三原城御城印
正木氏、真田氏とも相模の三浦氏の流れと伝えられており、正木氏の家紋である「丸に三つ引き両」を用いました(築城者の真田氏家紋も正式には「丸に三つ引き両」であるため)。又、真田氏の家紋は多岐にわたりますので、当地の真田家で多く使われている「丸に違え鷹羽紋」を用いました。

三原城山城

Mihara Castle Mountain

三原城山城跡は南房総市和田町中三原の神田山にあり、名刹正文寺の南側の台地が城山と呼ばれ、城のあったところと伝承されています。今は山林化して台風被害による倒木もあるため登頂は難しくなっていますが、城跡は県道・市道に囲まれて独立し、周辺の山や三原城跡の山頂から望むことができます。
当地の豪族で真田氏頭領の真田源吾が安元・治承(1175~81年)の頃築城したと伝えられています。又、真田氏は貞応年間(1222~24年)に同市和田町中三原の唐ケ作に諏訪神社を創建したと伝えられています。又、三原城山城には五穀豊穣のため八大竜王が祀られています。(今は台風被害により石宮も被害を受けている模様です。)
大永・享禄(1521~32年)の頃、とうしろ台城の境井氏の乱を里見氏の命を受け、正木氏と真田氏が平定、その後真田氏は正木氏の配下となりました。この功により正木氏は正木郷、三原郷、長狭郡を拝領し、やがて三原城と鴨川市の山の城から北上、東上総へ進攻して小田喜城(大多喜・本家時茂)・勝浦城(別家時忠)を拠点に隆盛をみましたが、里見氏が上総召し上げで安房に退去すると、勝浦城の正木頼忠(時忠・時通より家督承継)もふる里の三原に戻り、要害性の高い三原城山城を再興したとも言われています。
三原城山城・三原城・とうしろ台城を見張り・詰城・控城として、正木氏がこの三城全体を三原城として活用との伝承もあります。
岡田晃司さん

三原城山城御城印

白浜城御城印
三原城山城、三原城とも築城者は真田氏と伝えられ、後、正木氏が領有したとの伝承があるこおから、正木氏の「丸に三つ引き両」(三浦氏と正木氏は同族との伝承)を用いました。真田一族も正式には三浦氏の「三つ引き両」(真田氏も三浦一族と言われている。)であるが、真田氏の家紋は多岐にわたるので、当地の真田家で多く用いられている「丸に違え鷹羽紋」を用いました。

白浜城

Shirahama Castle

白浜は、房総半島の南端に位置し、中世・太平洋の海上交通を抑える要衝でした。そのため、関東地方の戦国時代の幕開けとなる享徳の乱(1454年~1483年)において、鎌倉公方足利氏から当時関東管領の上杉氏派が統治していた安房地域を奪うために、送り込まれたのが里見氏といわれ、その初代の里見義実が、本拠にした場所が白浜城と考えられています。城跡は太平洋を一望に見渡せる標高140メートルの山頂を中心に占地し、東西1キロメートル、南北400メートルにわたる広大な城域を有し、物見台、堀切などのほか、尾根に小さな平場を作ることで曲輪を配した房総戦国時代初期の遺構が残る城郭です。
登山道が整備されており、山頂からの太平洋の眺望は秀逸です。山麓から山頂までは、約40分で往復することができます。

白浜城御城印

白浜城御城印
里見氏の家紋と太平洋を眺望するために物見台に建っていたであろう望楼を考証を踏まえ、イメージ化するとともに、望楼前に作られていたであろう木柵と太平洋からの海風にたなびく里見家の幟をデザインのモチーフといたしました。

滝田城

Takida Castle

滝田城跡は南房総市上滝田区・下滝田区根小屋西方の丘陵上に占地する山城です。築城時期は定かではありませんが、天文の内訌(1533年)時、里見義豊派の一色氏の居城であり、里見義堯派に攻められ落城したという歴史を持ちます。この落城後は、しばらくの間、里見義堯が居城としていたのではないかともいわれています。城跡の最高所は標高140メートルであり、八幡台と呼ばれ、主郭部と考えられるとともに、これを囲む形で、曲輪と思われる数か所の平場が認められる構造となっています。城跡は南房総市の指定史跡とされており、曲輪、櫓台跡、竪堀などの遺構が良好に残ります。また山麓より遊歩道が整備され、所要約80分で城内を巡ることができます。

滝田城御城印

滝田城御城印
このお城は、「南総里見八犬伝」では、里見義実の居城とされ、八犬伝発祥の城とされています。この経緯により、城跡内の遊歩道には、物語に登場する伏姫と八房の像である「伏姫八房翔天の像」があり、その像のイメージをモチーフに里見氏の家紋と合わせ、デザイン化いたしました。

宮本城

Miyamoto Castle

宮本城は、南房総市富浦町大津の標高188メートルの山上を中心に占地する中世戦国期の山城であり、城跡は南房総市の指定史跡となっています。宮本城は稲村城の支城として築かれた城といわれていますが、天文の内訌(1533年)の一方の主役であった里見義豊が幼少時育った城ともいわれています。
宮本城は、地形に対して竪堀、土橋、堀切等を組み合わせ、大規模な山城としての要害化が図られています。また、石積み遺構が残ることが大きな特徴です。このお城は、北側の防御に力が注がれており、上総方面を意識した山城であったと思われます。遺構の状況から見ても、戦国時代末期まで使用されていたものと考えられているとともに、一時期は、里見家当主である里見義堯の居城であった可能性もあるといわれています。

宮本城御城印

宮本城御城印
宮本城はその城域、要害化の状況から見ても、安房の国、有数の山城といえます。
御城印においては、その山城全体の山容をモチーフとして、里見家の家紋と合わせデザイン化しました。

石堂城

Ishido Castle

石堂寺の背後に築かれた城郭。石堂寺自体も万が一のときに備えて城郭として人工的に加工されている痕跡が見て取れます。特に薬師堂が建つ平場と、その下にある池は物見台と堀の役目をしていた空間だと考えられます。(薬師堂は後世に今の場所に移築されたものです)
石堂寺と道路を挟んだ石堂原にも城が築かれていたと伝わり、寺を取り込むように城郭化されていたと推察できます。
石堂寺は火災などで何度か消失しましたが、そのたびにこの地域を領地としていた丸氏らによって再建されました。
石堂寺に今も残る多宝塔(国指定重要文化財)は1545年に丸常綱を大旦那として、丸一族を中心に建立されました。
丸氏にとって、石堂寺は信仰の中心だったんですね!
山城ガールむつみ

石堂城御城印

石堂城御城印
石堂寺の多宝塔は丸一族を中心に建立されました。丸氏にとって、石堂寺は信仰の中心であり、その寺を取り込んだ石堂城を築いた際も丸氏が深く関わっていたと推察されます。御城印には丸氏の家紋をデザインし、戦国期に丸氏が属した里見氏の家紋もあわせてデザインしました。
奈良時代からの古刹石堂寺を取り込み築かれた石堂城の険峻な山容をイメージして、御城印に描きました。

丸城

Maru Castle

丸氏の菩提寺安楽寺背後の丘陵上に築かれた城です。安楽寺の前を通る街道は丸城が機能していたときも存在していたと思われ、その街道を見張るように櫓台が残ります。自然地形を使い、主郭のスペースを確保し、城郭としたのでしょう。
今の丸城は戦国時代に使用されたと思われ、それ以前は麓の安楽寺の場所に屋敷が建てられていたとも想像できます。いずれにしても、平安時代からの豪族、丸氏の本拠地に丸氏ゆかりの貴重な城と寺が今に残っているのです。
丸氏は房総半島に土着した平氏の一族と思われ、「常」を通字としています。保元の乱では、源義朝軍に加わり戦いました。
吾妻鏡にも名前が登場する古代からの氏族です。
戦国期には安房東部の領主としてこの地域を治めていて、丸山川流域に一族が分布していました。
山城ガールむつみ

丸城御城印

丸城御城印
丸城が築かれた一帯を拠点とした丸氏は、保元の乱(1156)では義朝軍として戦い、鎌倉政権成立後には『吾妻鏡』にもその名が見えるほどの一族です。
御城印には丸氏の家紋と、戦国期に丸氏が属したと思われる里見氏の家紋をデザインし、安楽寺の山門をモチーフにしました。この山門は享徳元年(1452年)に建てられていたといわれ、享徳の乱(1454年)直前にあたるこの時期の丸氏の居城を想像できる現在に残る貴重な遺構です。この時期の丸城城主は、丸常重であることも安楽寺に残る鋳造護摩釜よりわかっています。山門にあわせて丸城城山の山容を描き、街道を見張る櫓をデザインしました。

平松城

Hiramatsu Castle

古くからの安房の豪族安西氏の居城と伝わります。平松城は、太平洋航路の要である鏡ケ浦(現館山湾)に注ぐ河川沿いに築かれていて、安西氏がこの要衝を押える水軍を擁していたことがわかります。今に残る城は戦国期のもので、里見氏に属した安西氏が築いたのでしょう。
三浦一族の和田義盛の子である朝比奈義秀の母は安西氏の娘でした。三浦義澄の娘は安西景益に嫁いでます!安西氏と三浦氏は密接な関係だったのです!ちなみに安西景益は石橋山合戦のあとに房総半島に逃げた頼朝の道案内をした人物です。
山城ガールむつみ

平松城御城印

平松城御城印
平松城は、太平洋航路の交通の要である鏡ケ浦(現館山湾)に注ぐ河川沿いに築かれました。安西氏はこの海上交通の要衝を押える水軍の一団だったと考えられます。御城印は船で太平洋を行き来する安西氏をイメージし、表現しました。
安西氏は対岸の三浦半島の豪族三浦一族とも関係が深かったとされていることから、三浦一族の家紋「三つ引両」をデザインしました。

里見番所

Satomi-Bansho

コンパクトながらも技巧的な城郭遺構が残ります。特に北西側に横堀を入れ、斜面を削り切岸にして、断崖絶壁に防御を固めています。下から見上げると垂直にそびえる斜面は到底登ることができません。北西方向に敵対勢力がいたことが考えられ、この地域の戦国史を考えるに重要な城と思われます。
文献には乏しいため、里見氏関連の城であることは想像できるものの詳細は不明ですが、当時のままの形状が残る貴重な城です。

里見番所御城印

里見番所御城印
御城印には里見氏の家紋「二つ引両」をデザインし、さらに里見番所の縄張図と復元鳥瞰図をモチーフにしました。歴史の詳細は不明ながらも、里見番所は造り込まれた遺構が残り、現地を訪れ、当時を想像して楽しむことができる図となっています。

南総里見八犬伝御城印帳

Gojoincho

せっかく手に入れた御城印ですが、直接カバンにしまったりしてくしゃくしゃになることがあります。それを防ぐには、御城印帳に保管するのがオススメです。
そこで、南総里見八犬伝御城印帳も一緒にご購入するのはいかがでしょうか。
御城印は1枚300円(税込)、御城印帳は3,850円(税込)で、ご購入いただけます。
御城印帳表紙
御城印帳裏

デザインした山城ガールむつみ(歴史講師&山城ナビゲーター)さんより

表紙は海に乗り出し活躍した里見氏をイメージし、安宅船をデザインしました
裏面は南総里見八犬伝の世界観を表現するため、伏姫と八匹の犬、そして弾けて飛んでいく八つの球をデザインしました。
妖しくも面白い八犬伝の魅力が伝わりますように。

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