南房総のお城を巡る
南房総里見浪漫・御城印を巡る旅
御城印を巡る旅
Journey to correct the Gojoin
その里見氏にまつわるお城に関しての御城印(ごじょういん)を手に入れ、それぞれのお城が持つ歴史浪漫に想いを巡らせてみませんか。
南房総市の戦国城跡
Ruins of Warring Castle in Minamiboso
城郭が築造されはじめた戦国時代前期の房総半島南部では、大きな勢力はまだ成長していなかった。そのため、抗争があったとしても小さな地域勢力による小競り合いにしかならなかっただろう。しかし戦国時代後期になると、房総半島南部を支配して地域勢力を指揮下におき大勢力となった里見氏や正木氏が、相模の北条氏や上総の大きな勢力と、多数の軍勢による戦闘をするようになった。そうすると城郭も、規模の大きな戦闘に対応できる複雑な構造になっていった。火縄銃も導入されてくるのでなおさらだ。
南房総市の城跡は、戦国時代の末まで使われていたものは少ない。戦国時代の前中期の構造をした単純な城跡ばかりである。それは戦国後期には戦闘に即応する城郭が必要なかったということである。その時期の南房総地域は里見氏の安定支配地域になっていたことから、戦闘が身近に起こるものではなかったということでもあるだろう。
南房総地域は、広域抗争の前線になる場所が少なかったことから、戦国後期の戦闘に即応した城郭への改造に至らなかった。多く残されている、山の斜面に曲輪のみを重ねた単純な城跡は、隣接小勢力との小競り合いに対応していた戦国前期の姿なのだ。南房総地域で戦国後期にも使用されていた城郭は、館山城・勝山城・岡本城・宮本城・里見番所など海上交通や内陸交通の要所である。そもそも城郭には、軍事的な意味だけでなく経済的にも政治的にも交通路を掌握する目的があった。戦国後期でも実用として必要になった城郭は、軍事と流通上の役割が期待されていた城なのである。
(安房地域史研究家 岡田晃司)
三原郷歴史探求会(第2回)開催します
テーマ「正木氏と里見氏」の関係について
戦国時代、房総や関東に名をはせた里見氏、独自に大きな勢力として里見氏の歴史に影響を与えた正木氏。両者の関係について探求します。
また、南房総市観光協会から、三原城、三原城山城、とうしろ台城の3か所の御城印が発行されましたので、併せてお話を伺います。地域のルーツを共にたどりませんか。お気軽に参加下さい。
御城印の書家の作品も展示します。
- 日時
- 2023年9月24日(日) 13:30~
- 場所
- 和田コミュニティーセンター 3F市民ホール
- 連絡先
- 歴史の郷へ応援団 三原
090-1546-9816(鈴木) - 後援
- 一般社団法人 南房総市観光協会
- 参加費
- 300円(3城の中からお好きな御城印1枚を進呈)
当日受付も可能です。資料用意の為、ご予約がおすすめです。
とうしろ台城
Toshirodai Castle
千葉氏一族と言われる境井弾正、将監兄弟の居城と伝えられています。とうしろ台城跡には、同市和田町黒岩側からの登山道の麓に「城井」と思われる遺構があり、今も湧水があり利用されています。
城跡を中心として駒場・根方・堀の内宿・向根・馬場などの地名が残り、武士が拠点にしていた名残が窺えます。ある程度長い期間この地に土着していたと思われる豪族の境井氏の城ですが、大永・享禄(1521~32年)頃に里見氏に抗して反乱をおこし、里見氏の命をうけた正木氏に滅ぼされたと伝えられています。
同市和田町小川には、千葉氏一族の境井氏が小川や長狭を領有していたと伝わることから、千葉氏の氏神である妙見様が、天御中主神社として勧請創建されたとの伝承があります。
安房正木氏が、真田氏と共に大井氏・境井氏の乱を平定し、三原郷や長狭郡を里見氏から恩賞として賜り、三原城や長狭郡の山の城を足がかりに上総へ進出して隆盛を誇ると、真田氏は正木氏の配下となりました。1590年(天正18年)に勝浦城主正木頼忠が里見氏と共に安房一国へ退拠させられると三原郷へ戻り、入道して環斎と名乗り、鴨川市成川に隠居するまでの間に、妙見様、天御中主神社を再興したとも伝えられています。
境井氏が拠った地であるとうしろの居館や城跡を三原城と呼んだという説や、とうしろ台地の奥に位置する「先塚」あるいは「大塚」に出城や本城があったという説もあります。
とうしろ台城跡は現在竹藪となっていますが、令和5年度後期から里山として整備されていく計画です。
とうしろ台城御城印
とうしろ台城の城主と伝えられる境井氏は千葉氏一族とされ、千葉氏の家紋は九曜紋です。境井氏が勧請した天御中主神社は「七曜紋」を使用しています。北斗七星、妙見信仰にもとづき、千葉氏の未流として境井氏が使用した家紋なのでしょう。正木氏によって三原城の支配下におかれたとの伝承もあり、正木氏の家紋「丸に三引両」もとりいれました。
三原城
Mihara Castle
三原城はその頃から、慶長10年(1605年)までのおよそ70~80年間正木氏の居城となり、正木時綱、時忠、時通、頼忠と当地は家督承継されました。(諸説あります。)
勝浦城主だった正木頼忠が天正2年(1574年)に父時忠の菩提寺とするため、禅宗の正文寺を日蓮宗に改宗、威武山正文寺と称しました。開基となった頼忠の娘は徳川家康の側室「お万の方」で、紀州徳川家初代の頼宣、水戸徳川家初代の頼房の生母として知られていることから、正文寺には「お万の方」の寄進の遺品やゆかりの史跡(南房総市指定)が数多くあります。
正木氏が領有した時代には、三原城・三原城山城・とうしろ台城をあわせて、三原城として活用したとの伝承もあります。
三原城御城印
正木氏、真田氏とも相模の三浦氏の流れと伝えられており、正木氏の家紋である「丸に三つ引き両」を用いました(築城者の真田氏家紋も正式には「丸に三つ引き両」であるため)。又、真田氏の家紋は多岐にわたりますので、当地の真田家で多く使われている「丸に違え鷹羽紋」を用いました。三原城山城
Mihara Castle Mountain
当地の豪族で真田氏頭領の真田源吾が安元・治承(1175~81年)の頃築城したと伝えられています。又、真田氏は貞応年間(1222~24年)に同市和田町中三原の唐ケ作に諏訪神社を創建したと伝えられています。又、三原城山城には五穀豊穣のため八大竜王が祀られています。(今は台風被害により石宮も被害を受けている模様です。)
大永・享禄(1521~32年)の頃、とうしろ台城の境井氏の乱を里見氏の命を受け、正木氏と真田氏が平定、その後真田氏は正木氏の配下となりました。この功により正木氏は正木郷、三原郷、長狭郡を拝領し、やがて三原城と鴨川市の山の城から北上、東上総へ進攻して小田喜城(大多喜・本家時茂)・勝浦城(別家時忠)を拠点に隆盛をみましたが、里見氏が上総召し上げで安房に退去すると、勝浦城の正木頼忠(時忠・時通より家督承継)もふる里の三原に戻り、要害性の高い三原城山城を再興したとも言われています。
三原城山城御城印
三原城山城、三原城とも築城者は真田氏と伝えられ、後、正木氏が領有したとの伝承があるこおから、正木氏の「丸に三つ引き両」(三浦氏と正木氏は同族との伝承)を用いました。真田一族も正式には三浦氏の「三つ引き両」(真田氏も三浦一族と言われている。)であるが、真田氏の家紋は多岐にわたるので、当地の真田家で多く用いられている「丸に違え鷹羽紋」を用いました。白浜城
Shirahama Castle
登山道が整備されており、山頂からの太平洋の眺望は秀逸です。山麓から山頂までは、約40分で往復することができます。
白浜城御城印
里見氏の家紋と太平洋を眺望するために物見台に建っていたであろう望楼を考証を踏まえ、イメージ化するとともに、望楼前に作られていたであろう木柵と太平洋からの海風にたなびく里見家の幟をデザインのモチーフといたしました。滝田城
Takida Castle
滝田城御城印
このお城は、「南総里見八犬伝」では、里見義実の居城とされ、八犬伝発祥の城とされています。この経緯により、城跡内の遊歩道には、物語に登場する伏姫と八房の像である「伏姫八房翔天の像」があり、その像のイメージをモチーフに里見氏の家紋と合わせ、デザイン化いたしました。宮本城
Miyamoto Castle
宮本城は、地形に対して竪堀、土橋、堀切等を組み合わせ、大規模な山城としての要害化が図られています。また、石積み遺構が残ることが大きな特徴です。このお城は、北側の防御に力が注がれており、上総方面を意識した山城であったと思われます。遺構の状況から見ても、戦国時代末期まで使用されていたものと考えられているとともに、一時期は、里見家当主である里見義堯の居城であった可能性もあるといわれています。
宮本城御城印
宮本城はその城域、要害化の状況から見ても、安房の国、有数の山城といえます。御城印においては、その山城全体の山容をモチーフとして、里見家の家紋と合わせデザイン化しました。
石堂城
Ishido Castle
石堂寺と道路を挟んだ石堂原にも城が築かれていたと伝わり、寺を取り込むように城郭化されていたと推察できます。
石堂寺に今も残る多宝塔(国指定重要文化財)は1545年に丸常綱を大旦那として、丸一族を中心に建立されました。
丸氏にとって、石堂寺は信仰の中心だったんですね!
石堂城御城印
石堂寺の多宝塔は丸一族を中心に建立されました。丸氏にとって、石堂寺は信仰の中心であり、その寺を取り込んだ石堂城を築いた際も丸氏が深く関わっていたと推察されます。御城印には丸氏の家紋をデザインし、戦国期に丸氏が属した里見氏の家紋もあわせてデザインしました。奈良時代からの古刹石堂寺を取り込み築かれた石堂城の険峻な山容をイメージして、御城印に描きました。
丸城
Maru Castle
今の丸城は戦国時代に使用されたと思われ、それ以前は麓の安楽寺の場所に屋敷が建てられていたとも想像できます。いずれにしても、平安時代からの豪族、丸氏の本拠地に丸氏ゆかりの貴重な城と寺が今に残っているのです。
吾妻鏡にも名前が登場する古代からの氏族です。
戦国期には安房東部の領主としてこの地域を治めていて、丸山川流域に一族が分布していました。
丸城御城印
丸城が築かれた一帯を拠点とした丸氏は、保元の乱(1156)では義朝軍として戦い、鎌倉政権成立後には『吾妻鏡』にもその名が見えるほどの一族です。御城印には丸氏の家紋と、戦国期に丸氏が属したと思われる里見氏の家紋をデザインし、安楽寺の山門をモチーフにしました。この山門は享徳元年(1452年)に建てられていたといわれ、享徳の乱(1454年)直前にあたるこの時期の丸氏の居城を想像できる現在に残る貴重な遺構です。この時期の丸城城主は、丸常重であることも安楽寺に残る鋳造護摩釜よりわかっています。山門にあわせて丸城城山の山容を描き、街道を見張る櫓をデザインしました。
平松城
Hiramatsu Castle
平松城御城印
平松城は、太平洋航路の交通の要である鏡ケ浦(現館山湾)に注ぐ河川沿いに築かれました。安西氏はこの海上交通の要衝を押える水軍の一団だったと考えられます。御城印は船で太平洋を行き来する安西氏をイメージし、表現しました。安西氏は対岸の三浦半島の豪族三浦一族とも関係が深かったとされていることから、三浦一族の家紋「三つ引両」をデザインしました。
里見番所
Satomi-Bansho
文献には乏しいため、里見氏関連の城であることは想像できるものの詳細は不明ですが、当時のままの形状が残る貴重な城です。
里見番所御城印
御城印には里見氏の家紋「二つ引両」をデザインし、さらに里見番所の縄張図と復元鳥瞰図をモチーフにしました。歴史の詳細は不明ながらも、里見番所は造り込まれた遺構が残り、現地を訪れ、当時を想像して楽しむことができる図となっています。南総里見八犬伝御城印帳
Gojoincho
そこで、南総里見八犬伝御城印帳も一緒にご購入するのはいかがでしょうか。
御城印は1枚300円(税込)、御城印帳は3,850円(税込)で、ご購入いただけます。
デザインした山城ガールむつみ(歴史講師&山城ナビゲーター)さんより
裏面は南総里見八犬伝の世界観を表現するため、伏姫と八匹の犬、そして弾けて飛んでいく八つの球をデザインしました。
妖しくも面白い八犬伝の魅力が伝わりますように。
富山ウォーキングセンター
「海が好き!」「山が好き!」「浪漫がある!」「温もりがある!」 南房総八犬伝の里 南房総・岩井に ぜひ!お越しください。 当センターは、JR岩井駅に隣接されています。 ハイキングでお越しの方は、地図など ...
- 住所 千葉県南房総市市部146-02
- TEL 0470-57-2088
- FAX 0470-57-3131
- E-mail tomiyama@awa.or.jp