南房総市の山城をナビゲート
山城ガールむつみさんと一緒に南房総の山城へ。
いざ、歴史ロマンの旅!
山城ガールむつみ
山城、歴史イベントや講座を多数開催。数多くの御城印デザインも手がけ、地域活性の起爆剤として「山城」めぐりの楽しさを伝えている。
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南房総市の山城!
南房総市は海と山に囲まれた自然豊かな美しい場所です。「食」も豊富で、一年中おいしい食べ物が満載! そんな魅力的な南房総市は歴史も深く、多くの歴史遺構が存在します。
戦国時代になると、里見氏や正木氏などの有力な戦国大名や国衆が領地を守るために、天然の要害である丘陵や山を利用して城を築きました。敵の侵入を防ぐため、城には山麓から山頂にかけて様々な仕掛けが施されました。そのようにして築かれた城を「山城」といいます。
500年ほど前に、自らの領民、経済、文化などを守るために築かれた山城。南房総市にはたくさんの山城が今でも残っていて、私たちを歴史ロマンの旅に誘ってくれます。
安房国を代表する大名である里見氏は戦国時代、下野国(群馬県)から鎌倉公方の命を受けて安房国にやってきました。そして、一族のお家騒動などを経て、房総半島で強大な勢力に成長し、戦国大名となりました。
関東の戦国史を彩る活躍と、その後の里見家を襲う悲劇などから着想を得た名作「南総里見八犬伝」が創られ、人々の感動を誘い今に語り継がれています。
「山城」を歩くと、創作上の物語とはまた違う戦国大名としての里見氏の姿が浮かび上がり、歴史ロマンを感じずにはいられません。
それでは南房総市の山城に出陣してみましょう!
里見氏はじまりの城『白浜城』
白浜城は房総半島の最南端に位置し、海上交通を押さえる要衝地に当たります。標高140mほどの山頂からの眺めは絶景で、眼下に野島埼灯台、その先に太平洋を望めます。
小田原北条氏と江戸湾を挟んで戦いを繰り広げるまでに勢力を拡大する里見氏が、安房に入って最初に本拠としたのがここ白浜の地なのです。
15世紀頃、太平洋海運の要衝地だった白浜は事実上、関東管領上杉氏の領地でした。享徳の乱(1454年)をきっかけに、鎌倉公方足利成氏が関東管領勢力から重要地である白浜を奪還すべく、里見義実を安房に送り込んだと思われます。
今でも群馬県高崎市には里見城という里見氏ゆかりのお城が残っていますよ。
安房里見氏の初代義実は白浜に入り、城を築き、安房国進出の第一歩としました。まさに安房里見氏はじまりの城がここ白浜城なのです!
では白浜城に登城開始です!
白浜城登城口
青木観音堂の横から登っていきます。入り口には杖も置いてあります。
大雨で道が崩れている箇所もありますが、気持ちのいい山道です。スニーカーかトレッキングシューズで城攻めしましょう。
現在のこの登山道がお城があった当時の道と同じかどうかは分かりませんが、戦前からこの登山道は存在したようです。
当時のお城の道はどこだったのかな?
そんなことを考えてタイムスリップ気分を楽しみながら、息を切らせてどんどん登っていきましょう。
白浜城の城山は、第二次世界大戦の時に軍用地として使われていたため、改変を受けている可能性もあります。この岩を切り開いた道はいつの時代のものなのでしょうか?
ふと足元を見ると、たくさんの貝が。
中世には今の地形より、海岸線がもっと山に迫っていたと思われます。
もっと遡って縄文時代にはこの山には波が打ち寄せていたのでしょう。その名残りと思われるサザエが何個も転がっています。このことからも白浜城が海と密接な水運の要衝だったことが偲ばれます。
大雨で斜面が崩れた際に流れ出てきたのでしょう。
ひとやすみして、振り返るとすでに結構な高さが!
城山直下の山麓部分には「庭台」と呼ばれる段丘面が残っていて、家臣屋敷があったといわれていますが、ちょうど眼下に広がるあたりに屋敷が並んでいたのでしょうか。
登山道から少し奥を見てみると、不自然な平場が点在します。
後世の畑の跡か、はたまた城が存在した時代の腰曲輪か?それとも、当時の城道か?
写真矢印の箇所が削平されて平場になっています。
やはり人工的に土を削って加工された曲輪があちこちに目につきます。
写真矢印の箇所が削って整えられて平場になっています。
削平されて平らにされた空間を「曲輪(くるわ)」といいます。
建物を建てたり、兵を置いたり、いろいろな用途に使われた平らなスペースのことです。
ここの曲輪は何に使っていたんだろう?そんな風に考えながら歩くとますます楽しくなりますね。
登ってる途中も常に怪しい痕跡がないかを探しながら進みましょう!
キョロキョロと神経を研ぎ澄ませながら進みます。
ただし、足もとには気を付けてくださいね!
途中にある平場。きれいに削平されています。
ここから登ってくる人を見張っていたのでしょうか?だとすると、この真下が城の道ということになりますね。想像が膨らみます。
まもなく山頂のエリアに到達です。
このような岩盤の切通しが出迎えてくれます。
この切通しはいつのものでしょうか?
考えるとワクワクしますね。
岩盤の切通しを登り切ると、このように開けた場所に出ます。
自然地形を利用しながら、右手(東側)のエリアと左手(西側)のエリアを分断するような造りになっています。
ここから右手(東側)エリアにも曲輪や、その曲輪にめぐらされた土塁、さらには櫓台のような土の高まりが見受けられます。
櫓台とは、物見や防衛のための建物(櫓)が建てられていた土台のこと。ここには、城に入ってくる敵を見張ったり、攻撃したりする櫓があったと思われます。
下からの道に対しての見張りとして機能していたのではないでしょうか。
東側エリアに行くと、埋もれてしまっていますが井戸も確認できます。
矢印の土の塊が「土塁」です。土を盛って築いた土塁は、敵を防いだり、風よけにしたり、柵や塀の土台にしていたと思われます。
物見台と思われる土の塊が残っています。その下の地面は平らにならされ、曲輪として何らかの用途に使われていたと思われます。
では、次は西側のエリアに進んでみましょう。 歩いていくと、東西に伸びる尾根を通路にし、それに沿うようにひな壇状に造られた曲輪や、大小様々な曲輪が点在しています。
そして、直下の湊を押さえる城らしく、南側の海に向けて櫓台と思われる遺構が残っています。
この高まりが櫓台と思われ、上には物見の櫓が建っていたのでしょうか?行ってみましょう!
上がってみると、小さいながらも綺麗な平場になっています。ここから、大海原を見渡し見張っていたのでしょうか?
船で海から戻ってくる仲間に合図を送ったのかもしれませんね。
ここからは見事な景色が広がります。
海に漕ぎ出し房総の湊を行き来した里見水軍の船が目に浮かぶようです。
写真右手に見えるのが、野島埼灯台です。今も灯台があり海上の重要地である白浜は、中世から重要な湊だったと思われ、白浜城がランドマークになっていたのでしょう。
ちなみに、野島埼灯台のある「野島」はかつては島だったと考えられています。
隠居した里見義通が白浜に入り、義豊を支えたと考えられています。
今でも稲村城には白浜城へと続くとされる道が城内に通っていて、18kmの距離で行き来できます!
16世紀前半頃、「白浜」と呼ばれる人物が文書に登場しますので、その頃まで白浜城が使われていたのかもしれませんね。
勢力拡大の足がかり『宮本城』
宮本城は標高約180mの「城山」と呼ばれる丘陵に築かれました。
南房総市富浦町大津にあり、別名「大津城」とも呼ばれています。
その名の通り、「津・湊」を押さえる城であり、山全体を要害化し、房総半島でも有数の山城となっています。
多々良海岸に注ぐ岡本川の中流域に位置し、鏡ヶ浦(館山湾)を望む要衝地です。
安房に入った里見氏が白浜城から稲村城に本拠地を移した際、ここ宮本城も支城として整備されたと考えられています。
稲村城にいた里見家当主義豊が叔父の実堯を殺害したことにより、里見家中が分裂し、義豊VS義堯(実堯の子)という図式で戦うことになったのです!
そのときに、義豊方の城として戦ったのがここ宮本城なのです!
では、さっそく宮本城に出陣してみましょう!
宮本城登城口標識
城山西側のこの登城口から登ります。
左手の標識を目印に進んで行きましょう。
進んで行くと、高台になったところにこのような雛壇状の畑があります。もしかしたら、家臣の屋敷がこのあたりにあったのかもしれませんね。
どんどん進むと少し広い道になります。
苔むしているので滑りやすいです。気をつけて歩きましょう。
車も通れますが、狭いのでご注意を!
しばらく歩くと、登城路にこのような標柱が立ってますので、さらに奥へ進みましょう。
主郭へ向かう途中の城道。
上を見上げると、城道に対して攻撃をできるように足場を作っているのが見て取れます。色んなところから攻撃されそうな威圧感を感じます!
油断せず、キョロキョロしながら進みます。
天文の内訌で義豊方の城として使われ敗れた後は、替わって里見氏当主になった義堯が宮本城に入ったと思われています。
ここに里見義堯がいたんですね!感動!
宮本城は東方2kmの距離にある滝田城と連携し、本拠の城として機能していたと思われ、東尾根は滝田城へと続きます。
宮本城からは鏡ヶ浦や対北条氏のために築かれた岡本城(南房総市)も見えます。
さらに天文14年(1545年)頃から小田原北条氏と江戸湾(東京湾)を挟んでたびたび戦いが繰り広げられるようになり、金谷城(富津市)が北条方の手に落ちると、宮本城は北条氏に対する城として整備されたと思われます。
いろいろと想像しながら歩きましょう!
里見氏の家臣・一色氏の城『滝田城』
滝田城は標高150mほどの丘陵上に築かれました。展望台からの眺めもよく、山の裾野を通る平群街道を見下ろすことができます。
安房と上総を結ぶ平群街道は古来の幹線道路です。その中間地点にある滝田城は、西方2kmにある宮本城と山陵伝いに繋がっていて、二つの城は連携して安房国中心地への入り口を防衛する役目をしていたと考えられます。
滝田城は、里見氏のお家騒動である「天文の内訌」のときに里見義豊方の一色氏の城でした。一族ながらも敵方となった里見義堯の軍勢によって滝田城は攻められ落城しました。その後は争いに勝った義堯方の城となりました。
一色氏は足利一門の名家です。そのような一門が滝田城に入ったことで、この城の重要性や、城の格が垣間見えます。
そして、滝田城は南総里見八犬伝の舞台でもあります。時代を超えていまだ大人気の八犬伝の世界と合わせて楽しめる山城です。
滝田城は南総里見八犬伝の舞台となった城です。「伏姫」と「八房」が暮らしていたと物語の中で描かれている城です。
滝沢馬琴による南総里見八犬伝が時代を超えて愛され、誰もが知っている物語中の里見氏の「虚」の世界、戦国時代に房総半島で勢力を拡大し、戦国大名となり安房国の覇者となる里見氏の「実」の世界。
滝田城に出陣して、里見氏の「虚」と「実」の姿を探ってみましょう。
滝田城には駐車場が2カ所あります。
県道88号から西に分岐する道の先にトンネルがありますが、今回はその南側の登城口1駐車場から登って、トンネルの北側の登城口2駐車場に降りてくるコースをご案内いたします。
では、行ってみましょう~!
滝田城登城口1駐車場
この看板の奥に駐車場とお手洗いがあります。
車を止めて登っていきましょう!
イノシシ対策の柵がありますので、開けたら閉めて進んでくださいね。
途中、台風で崩れてる箇所もありますが気をつけてズンズン歩きましょう。
登り初めて数分。もうすでに景色がよくなってきました。
街道が眼下に。
ハイキング用に整備された道を歩きながら、ふと頭上を見ると気になる数mの高まりが。
ちょっと登ってみると…。
平場になってます。まだまだ滝田城の城域の外と思いきや、人工的に加工された形跡がところどころに残っています。
主郭へ向かうルートを見張るためでしょうか。
まるで土橋のような美しい道です。
自然地形の尾根ながらも、人工的に加工してるのでは?と感じる地形が続きます。途中、藪で不鮮明ながらも左右に堀切が入ってるような箇所もあり、ますます気分が高まってきます!
進んで行くと、展望台があります。
ここには南総里見八犬伝をモチーフにした里見義実の娘「伏姫」と犬の「八房」の像が建てられています。
江戸時代に滝沢馬琴によって創り出された八犬伝の物語は、人形劇や映画にもなり人気を博しました。
犬の八房にさらわれた伏姫のお腹から飛び出した八つの玉。伏姫は死んでしまいますが、その飛んでいった玉を持つ八犬士たちが、繰り広げる創作歴史物語です。
滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」では、滝田城は里見義実の居城として描かれています。
あまりの人気の高さ故に史実と物語が混同されがちですが、この滝田城では「虚」「実」両方の世界を楽しむことができます。
展望台から思いを馳せてみましょう。当時を想像できる美しい風景が広がります。
城に行くと当時の状況がわからないことがたくさんありますが、自分なりに考えて楽しむことが城めぐりの醍醐味ですね!
進んで行くと、かなりの高低差が出迎えてくれます!
人工的に攻めやすいように原地形を加工した痕跡が見て取れます。
階段を上っていきましょう。
ついに荒々しいお城の遺構が姿を現しました!
階段の途中にはコレ!堀切です。
ガツンと尾根が掘りきられています。
「堀切」とは、尾根を掘りきって分断することで、尾根道の通行を遮断し、敵を防ぐ仕掛けです。
当時はもちろん手作業で掘っています。
土を掘ったり盛ったりして、敵の侵入に備える仕掛けを城の中にたくさん施します。その当時の人の痕跡や、そこに込められた想いを探して歩くのが山城の楽しさではないでしょうか。
堀切をちょっと引いて撮ってみました。
本当は写真の黄色ラインのように山の尾根が続いてました。
それを掘って、尾根を切った敵を防ぐための仕掛け「堀切」が500年近くほぼ当時のまま、残っています。
階段を上りきると、櫓台になっています。
ここには、城に入ってくる敵を見張ったり、攻撃したりする櫓があったと思われます。
ここから山伝いに西方向に行くと宮本城へと繋がっています。宮本城と連携しながら、滝田城は使われていたのでしょう。
位置としては、南に稲村城、西に宮本城というように里見氏の重要な城が配置されています。
櫓台を降りると主郭へ到着です。ここから見ると、さきほどの櫓台が高い!主郭を守るためにここに櫓が建てられたのが納得できますね。
平成8年の台風で倒れた木の下からまとまった陶磁器が見つかっているため、ここが主郭と思われています。
有事の際には、城山に逃げ込んで籠城するための施設があったのかもしれません。城主や家臣の屋敷は麓に建てられていたのでしょうか。
では、次は二の曲輪へ進みます。
「弐の郭」と書かれた案内板がカワイイです。
ここからは台風の影響が色濃く残り、大木が倒れています。
気をつけて進みましょう。
大木をかき分けて進むと、二の曲輪東突端の下に曲輪を発見!
きれいに削平されています。下りてみましょう。
下りてみるとこの曲輪の下には、主郭へ向かう登城路が見えるので、ここからその道を見張るには最適です。
では、その登城路から、登城口2駐車場へ下りていってみましょう。
しばらく行くと、「虎口」と書かれた案内板があります。
「こぐち」と読みます。虎口はお城の入り口のことです。攻めにくくするために道を狭く工夫したので「小口」とも書かれます。
こちらのルートの場合、ここを通ってさきほどの主郭へと向かったんですね。こちらが大手道だと思われます。
どんどん下りていくと、いくつかの曲輪や「馬場」と呼ばれている曲輪もあります。
写真は「寺屋敷」と呼ばれている曲輪です。ここには居館があったのでは?ともいわれています。
確かに、かなり広い空間ですし、周囲を土塁で囲んでいて、居館があった可能性も十分に考えられますね。
土塁が高い!
写真で見ると、土塁と曲輪の広さが一目瞭然ですね。
滝田城登城口2駐車場
登ったルートとは逆のルートで下りて、県道88号から分岐した道にあるトンネルの北側に出てきました。
ここにも駐車場スペースがあるので、ここから登る逆回りルートでもOKです。お好きな方から登城して楽しんでください。
ここからもう一つの駐車場までは歩いて10分くらいです。
車で来た場合は、車を忘れて帰らないでくださいね(笑)
里見氏は一族のお家騒動などを経て、房総半島で強大な勢力に成長し、戦国大名となりました。
相模国を小田原北条氏が平定すると、北条氏と里見氏は江戸湾を挟んで争いました。両者の熾烈な戦いからも、いかに江戸湾の制海権を手中に収めることが重要だったかが分かります。
その後、里見氏は領地を削られ安房一国に押し込められ、さらには伯耆国へ移封されるなどの憂き目に合います。そのようなお家の悲劇が元となり、南総里見八犬伝が創られ、今に語り継がれています。
ぜひ、出陣してみてください!
丸氏の戦国山城『丸城』
丸城は天台宗安楽寺背後の丘陵に築かれました。南北に延びる山塊一帯が城跡とされています。山頂からは周辺の平野部を見渡すことができ、北東方面に位置する古刹石堂寺へと続く街道を臨むことができます。
丸城は、平安時代からの豪族、丸氏の居城とされています。詳細は不明ですが、安房東部の領主として、丸氏がこの地に城を築いたのでしょう。
前面の街道を見張るように櫓台が設けられています。
治承4年(1180年)、石橋山の戦いに敗れ安房に逃れた頼朝が丸五郎信俊を案内役として丸御厨を巡検し、丸氏の居館に宿泊し、安楽寺を参詣したといいます。
頼朝も訪れたかもしれない安楽寺!その背後に残る丸城に出陣しましょう!!
丸城の遠景。遠くから見ても目立ちます!
鐘楼の後ろには櫓台と思われる高台がそびえています。街道をしっかりと見張ることができますね。
安楽寺。谷戸を利用してお寺が建てられています。
安楽寺にお参りして、城に登りましょう。
山門。
この山門は享徳元年(1452年)に建てられたといわれ、享徳の乱(1454年)直前にあたるこの時期の丸氏の居城を想像することができる貴重な遺跡です。この時期の丸城城主は、丸常重であることも安楽寺に残る鋳造護摩釜よりわかっています。
丸氏の家紋。
お墓の脇から櫓台と思われる平場に登ります。
人工的に岩盤を削った階段状の登城路。お城の遺構でしょうか?
登って行くと櫓台の平場に出ます。
櫓台からは街道が丸見えです。石堂城も見えます。
安楽寺を見下ろす。ここに丸氏の居館があったのでしょうか。
櫓台には石碑などが点在しています。
安楽寺本堂の裏手には「やぐら」が数基あります。中には中世から江戸時代にかけての石塔類が。
中にはかなり古そうな五輪塔も。
趣があり、歴史を感じます。
やぐら自体も、観音扉が付いていたと思われる造りをしています。
この丸の地を拠点とした丸氏は、保元の乱(1156)では頼朝のお父さんの義朝とともに戦い、鎌倉政権成立後には『吾妻鏡』にもその名が見えるほどの一族です。
そんな丸氏の丸城と菩提寺安楽寺にぜひお出かけください!
安西氏の戦国山城『平松城』
山名川と平久里川に挟まれた丘陵上に築かれた平松城は、安房の豪族安西氏の居城として知られています。平松城は、太平洋航路の交通の要である鏡ケ浦(現館山湾)に注ぐ河川沿いに築かれました。安西氏はこの海上交通の要衝を押える水軍の一団だったと考えられます。
石橋山合戦(1180年)で平家の軍勢に敗れ、安房に渡ってきた源頼朝を助けた安西景益の城跡との伝承も残りますが、現在残る城の姿は戦国時代のものです。現地には主郭と見られる平場や、腰曲輪、そして櫓台のような人工的に削平された遺構が残っています。
安西氏は戦国期には里見氏や北条氏の家臣として取り立てられたとされています。
景益は道案内をしたり、安房国内の情勢を頼朝に伝え、アドバイスをしたと伝わります。
頼朝の再起をかけた進軍を助けたのは、まさにこの平松城の近くに居を構えていた安西氏なのです。
では、安西氏ゆかりの平松城に出陣しましょう!!
平松城の案内があるのでわかりやすいです。
標柱も立っています。「源頼朝に参じた安西景益の居城跡」このフレーズだけでワクワクしますね。
どんどん進みましょう。
大通りから入ると、中は谷戸になっています。結構奥が深い良い谷戸です。
以前は民家が建っていましたが、取り壊したら、やぐらが見えるようになりました。このあたりには中世の痕跡が濃く残ります。もしかしたら、このあたりが平安時代から室町時代頃の安西氏の屋敷かもしれません。
井戸もあったりと、風情があります。
道なりに登って行き、分岐を右手に進みます。ほどなく、平松城の案内板があります。
大きくて立派な看板。安西景益が地元の誇りだと言うことが伝わってきます。
切通しのような道を進みます。
畑が広がり、蜜柑の木もたくさんあります。そこに、うっすらと凹みが見えます。堀切かな?と、いつも気になります。
畑を通る道の脇には腰曲輪があります。
主郭に向かいましょう。
主郭手前に櫓台があります。
櫓台に行ってみましょう。
そんなに広いスペースではないですが、人工的な平場があります。
祠が祀られています。
では、主郭へ。城として使われなくなってから、いろいろな神様が祀られたようです。
立派な城址の石碑です。平松城は南房総市の指定史跡です。
主郭からの景色。美しい谷戸の風景です。このどこかに安西氏の屋敷があって、そこを頼朝が訪れたかもしれませんね。
和田義盛の妻の一人は安西氏の娘とも伝わり、そこで生まれたのが朝夷(あさひな)義秀ともいわれています。さらに、三浦氏の棟梁義澄の娘は安西景益に嫁いでいます。
海を行き交う安西氏と三浦氏の姿も垣間見え、現地に残る櫓台や堀切などの遺構から戦国時代も楽しめる平松城!
歴史ロマンが満載ですね!
小弓公方足利義明の孫、足利頼氏も入った『石堂城』
石堂城は天台宗寺院である石堂寺の背後の山に築かれました。石堂寺は寺伝によれば、奈良時代の創建、行基の開山と伝わる古刹です。その後、火災で焼失し、大永2年(1522年)にこの地域の名族丸氏の援助で現在の地に再建されたといいます。その際、要害地形を利用し、寺と一体を成すように石堂城が築かれたと思われます。
石堂寺の本堂を取り囲む尾根上には、堀切や土橋などの城郭遺構が残り、平場や櫓台のような痕跡も見て取れます。丸氏の居城である丸城が指呼の距離にあることからも、丸氏やその主筋である里見氏の城として機能していたと考えられます。
さらに、戦国時代の城の姿も色濃く残り、当時の石堂寺と石堂城の姿が容易に想像できて感動します!
では、石堂城に出陣しましょう!!
境内まで車で上がっていけます。駐車場で車を降りると、このような入り口になっています。土塁がそびえ、虎口のようになっています!
少し進むと多宝塔が見えてきます。天文14年(1545年)の建立とされています。
角度を変えるとこのような感じ。土塁に切れ目が入っていて、虎口になっているのがよく分かります。
土塁の手前には池が。当時は水堀の役目をしていたのかもしれません。
薬師堂が建っています。こちらは天正3年(1575年)建立とのことですが、石堂寺の向かいの台地「石堂原」にあったものを移設したものです。
現在、薬師堂が建っている高台は櫓台だったのかもしれません。
本堂。こちらは永正10年(1513年)建立です。貴重な中世の建造物がたくさん!
本堂裏手の平場。ここは石堂城の重要な平場だったといわれています。
片隅には中世の五輪塔の残欠が。戦国時代の痕跡がありますね。
本堂の前の階段を下りると、高低差がよく分かり、石堂寺、石堂城が築かれたこの台地が要害地形だったことが感じられます。
階段の途中から、道路を挟んで向かい側の台地が見えます。あの台地は、「石堂原」と呼ばれていて、ここにも城郭が築かれていたと伝わります。石堂城の出城のようなものだったのでしょう。
公衆トイレの裏側を登って、東方面に進みます。城郭遺構が残っているので行ってみましょう!
まず上がっていくと、櫓台のような平場があります。お寺の施設が建っていたのでしょうか?有事の際は見張所にしたのかもしれませんね。
櫓台のような場の裾野に沿って進みます。すると、かなり大きな谷が出現。
池のように水が溜まっています。
振り返ると、先ほどの櫓台のような高まり。目立ちますね。あそこからだと、四方八方丸見えです。
道なりにどんどん進みましょう。歩き甲斐のあるアップダウンが楽しいです。
休憩舎展望台を目指して進みます。
休憩舎展望台に向かうとついに高台が登場!
うっすらと堀切が見えます!
人が歩いていると、地形や高低差が分かりやすいですね。人工的にガクンと落ちているのが分かりますね。
振り向くと、通路の両サイドがえぐれています。これは、人工的に道幅を狭くして、両側を掘りき切った「堀切」です!
城郭遺構が綺麗に残っています。
展望台に上がってみると、かなり広い平場になっていることが分かります。
周囲にはうっすらと土塁の痕跡も残っています。
さらに奥に進むと、数段の平場が。このあたりも人工的に空間が作られています。
うっすらと堀のような痕跡も。
そして、なんといってもこの景色!この地域がすべて見渡せます。
地域の守り、見張りとして、石堂城は周辺のお城と連携していたと思われます。近くには丸城もあります。
石堂寺の多宝塔は丸常綱を大旦那として、丸一族を中心に建立されたものです。丸氏にとって、石堂寺は信仰の中心であり、その寺を取り込んだ石堂城を築いた際も丸氏が深く関わっていたと推察されます。
夕暮れ時の景色にブランコがよく合います。ブランコに揺られながら、この地域の歴史、そして石堂寺が城郭化されるに至った歴史的な背景などに思いを馳せるのも歴史ロマンですね。
石堂寺で養育された足利頼氏は、足利氏の没落後に足利の命脈を繋ぎ、喜連川藩祖となった人物です。足利の血を引き継ぐ頼氏が入った寺であることからも、石堂寺、そして石堂城の重要性が分かりますね!すごい!
ダイナミックな空堀が残る謎の城!『里見番所』
里見番所は平久里川と長藤川の合流点北側の丘陵に築かれました。
別名「不寝見川(ねずみがわ)番所」とも呼ばれ、横堀、切岸、堀切などの城郭遺構が残っています。
歴史的な詳細は不明ですが、南北に走る平久里街道を真下に見下ろす立地にあることからも、街道を見張る監視所の役目を担っていたと考えられます。南方には滝田城をはじめとする里見氏の城跡がいくつかあることから、この地域が緊迫した状況に置かれていたことがわかります。
現地にはダイナミックな空堀などが残るものの、文献などには一切登場せず、まさに「謎の城」です。
では、ミステリアスな里見番所に出陣しましょう!!
里見番所の築かれた山は、平久里川とその支流の囲まれた要害です。
平久里川が流れています。
里見番所の麓には郷蔵、高札場がありました。城の裾野を街道が通っていたんですね。
では、進みましょう。
この道沿い、カーブミラーのあたりから入っていきます。
尾根に沿って登ります。
ピンクのテープに沿って上がっていくと、平場が出現。人工的に切ってならされた空間です。
空堀も出現!
山の中に綺麗に残っています。
山頂部にある主郭の直下に堀を入れています。
登れません!これは攻められません!
現地で見ると、垂直にそびえる壁に見えます。
なんとか山頂に登ると、手水鉢。ここは、江戸時代には神社があったようです。
祀られています。
小御嶽神社と書かれています。
その突端には櫓台のような平場があります。
規模は大きくないものの、山の中にダイナミックな遺構が現れる里見番所。とても面白い山城です。
では、里見番所の謎を解く鍵になるスポットに行ってみましょう!
里見番所から南方へ。約1km。
このような案内板。まずは左へ進みましょう。
進んで行くと、「古戦場と里見氏の墓」の看板を発見!
実はこの周辺は「犬掛合戦」と呼ばれる戦いの舞台です。犬掛合戦は、里見氏のお家騒動「天文の内訌」により起きた戦いです。
天文2年(1533年)に、里見氏の当主義豊が、叔父の実堯と重臣だった正木通綱を稲村城で殺したことによって、実堯の子である義堯と義豊の間でお家騒動が勃発しました。
この争いは、小田原北条氏、真里谷武田氏らも介入した戦いに発展していきました。
この古戦場と、ほど近い場所にある里見番所。天文の内訌の時に利用された可能性がかなり大きいのではないでしょうか。
古戦場には墓もあります。元は、大雲院にありましたが廃寺になったためこの場所に移設されました。
墓は里見義通と義豊のものと伝わります。天文の内訌では、嫡流であった義豊の系統が敗北し途絶えました。里見当主の座は庶流の義堯の系統に移り、安房だけでなく上総国、下総国にも勢力を拡大していくことになるのです。
では次は八房公園に行きましょう。
八房の銅像がお出迎え。
ここからほど近くに「南総里見八犬伝」の舞台になった滝田城があることから、ここに八房公園があります。現実の合戦「犬掛合戦」と物語「南総里見八犬伝」。両方楽しめる楽しいエリアです。
公園の裏山には春日神社が。とてもいい雰囲気なので、お参りしていきましょう。
時代を感じ、中世の空気を感じられる気がします。
ここにも何段かの平場があります。真下には街道が通っていて、合戦の際も軍が通った道かもしれません。なので、街道の見張りの役目を持っていたかもしれませんね。
手水の裏を覗くと…。
五輪塔の残欠!室町時代初期のものでしょうか。ここにもやはり、歴史を物語る貴重な証拠品がありました。
山城、伝承、物語、遺物…。いろいろと見ながら、山城を楽しめるとより城めぐりが楽しくなりますね。
特に北西側に横堀を入れ、斜面を削り切岸にして、断崖絶壁に防御を固めています。下から見上げると垂直にそびえる斜面は到底登ることができません。北西方向に敵対勢力がいたことが考えられ、この地域の戦国史を考えるに重要な城と思われます。
里見氏のお家騒動「天文の内訌(1533年)」の際に、滝田城にいた里見義豊の勢力が一時的に築いた可能性も指摘されています。
南房総市の山城。
「白浜城」「滝田城」「宮本城」「丸城」「平松城」「石堂城」「里見番所」すべて個性的で素晴らしい山城です。ぜひ、出陣してみてくださいね!
写真・斉藤小弥太
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